6月14日 礼拝説教概要

聖化 ガラテヤの信徒への手紙 2:15~21 
 ⑴パウロが手紙を送ったガラテヤの教会は、「福音とは何か」ということが問われておりました。何故ならば、キリストを信じるだけでは駄目で、割礼を受け、律法を守らなければならないとする、律法的な偽教師たちに惑わされて、再び空しい律法的な生活に戻ってしまった人々がいたからです。
 本日はホーリネス信仰の中の四重の福音の中の「聖化」について語らさせていただきますが、「聖化」を語るとき、どうしても「新生」についても触れなければなりません。なぜならば、どちらも自分自身を神に明け渡すことなくして語る事ができないからです。
 旧約時代、羊や牛などの動物が罪の贖いの犠牲として献げられていたことは、私たちは十分理解しております。しかしそのことを具体的に我が身のこととして、受け止めたらどうでしょうか。犠牲の動物たちが、あなたの罪のために首を切られ、血を流し苦しみ、悲しみの眼差しをもって殺されていく、その苦しみと悲しみの眼差しをもって身代わりとなって殺されていく贖いの動物をじっと見つめ、自分の罪はこれほど深刻なものであることを覚えつつ献げるのが贖いです。
 仮にその犠牲が我が子であったとするならば、どうでしょうか。その苦悩を説明するまでもありません。「福音」とは十字架の贖いの福音です。
 ⑵信仰に生きる者とは、過去と決別し、前に向かって前進する者のことを言います。ある牧師は「信仰は四つの言葉で言い表す事が出来る」と語りました。Jesus died for me「イエスが、私の、ために、死んだ」これに尽きると言うのです。この信仰に立つとき、「きよめ」の信仰に立つということは、如何なることであるか、と説明する必要はないはずです。
 罪人である私のために十字架上に命を献げてくださったお方に応えていく、そして来るべき再臨の主イエス・キリストをお迎えする、そこにおのずときよめに生きる者の道が見えてきます。