2月1日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
「惑わされることなく」 マタイによる福音書24:1~14
⑴主イエスは「この世の終わりがある」ことを明言されました。そしてそのことに伴い様々な徴が現れることを語られました。しかし大切な心掛けは、「惑わされないこと」いうことです。また主イエスは殊更に不安を与えようとして語られたのではなく、「世の終わり」は、「救いの完成の時」であることを語っておられます。この神が定められた最後の到達点を見ずに、社会的環境を通して現れる世の終わりの徴だけを見るならば、人は絶望せざるを得ません。
⑵人は不安を抱くどの時代においても確固たる寄り所を求めているものです。ガリラヤという田舎から出て来た主イエスの弟子達の目には、エルサレムの神殿は実に荘厳で、頼りがいのある存在でした。ところが主イエスは、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と語られました。弟子達には不動な存在に見える神殿が崩壊するなどということは、想像すらすることのできないことでした。そのような彼らに対して主イエスは「これらすべての物を見ないのか」(2)と語られました。
すなわち「あなた方は本当のものが見えていない、本当に寄り頼むものは何か」と問われたのです。
⑶主イエスは終末に伴う6つの徴について触れられました。①「わたしがメシアだ」と、惑わす偽者の出現。②戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くこと。③民同士の敵対や飢饉、地震。④信仰故に殉教者が起こること。⑤つまずき、裏切り、憎しみ合いが起こること。⑥不法がはびこり、愛が冷えること。いずれも私達の置かれている現実です。真面目に生きようとする者が馬鹿を見るような現実、人を愛そうと思っても、必ずしも愛をもって応えられるわけでもありません。むしろ善をもってした業が、悪意をもって応えられることすらあります。結局これらの徴が現れる先には何があるかと言うと、刹那的な生き方と破滅でしかありません。この先世の中はどうなってしまうのか、誰もが不安を抱いております。
⑷結論は全世界に福音が宣べ伝えられてから、終わりが来る、ということです。預言者エゼキエルは神殿と神の都エルサレムから主の栄光が去っていくことを霊の眼をもって見ていた人物でした。しかしその彼は‶この都の名は、その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。″と最後のエゼキエル書48:35に記しています。すなわち失望するような中にあっても、信仰の眼が開かれている人は、臨在の主を見、その回復を夢見、真に寄り頼むべきお方はどなたであるかを悟らされ、そして魂の救いのために、御国の福音を宣べ伝える使命に生きることができるのです。