地の塩として

コロサイの信徒への手紙3章1~11節

澤田直子師

主題聖句 「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」 コロサイの信徒への手紙3章10節
 昨年5月31日、ペンテコステ礼拝から、教会での礼拝を再開し、人数を分散するために午後に第三礼拝を捧げることにしました。それから約一年、教会とは何かを考えて来たように思います。
 神学的には「教会とは何か」実践的には「教会とはどうあるべきか」という命題は、後者のほうが難しいように思います。人間の集まりですから、そこには自我のぶつかり合いが生じます。パウロは「上にあるものを求めなさい」と勧めます。5節「貪欲は偶像崇拝に他ならない」物質への欲望だけが貪欲ではありません。わたしたちは何と思い通りにならないことにいら立ち、8節「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」のような、必要のないものに苦しめられることでしょうか。
 9節「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て」かつて、地上のことに心を奪われて、自分の欲求を満たすことを中心において生きて来た、そんなわたしたちのために、イエス様が命を捨ててくださいました。
 ペンテコステの日、聖霊が降ると、弟子たちは一斉によその国の言葉で福音を語りだしました。聖霊の力は、相手に通じる心と言葉をもって、真理を語らせたのです。さて、わたしたちは、相手に伝わる言葉を選んでいるでしょうか。自分を守る言葉、相手を負かす言葉、時には沈黙で、目の前の誰かを傷つけていることがないでしょうか。
 イエス様は、聖霊を受ける信仰者を「地の塩、世の光」と言われました。イスラエルの塩は岩塩ですから、一見すればただの岩です。それは切り出され形を整えられて、必要とするところに運ばれます。信仰者もまた、そこにいて、ありふれた一人の人のようでいて、神に選ばれ、切り出され、整えられて用いられる者とされます。教会に集うわたしたちは、新しくされ聖霊の力を受けて、世に遣わされて行きます。地の塩として出て行きましょう。
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