永遠の命を与える

ヨハネによる福音書10章22~30節

澤田直子師

主題聖句 『わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。』
         ヨハネによる福音書10章28節

 22節の「神殿奉献記念祭」(別名「宮きよめの祭り」)とは、紀元前2世紀半ばに、アレキサンダー大王の影響で世界にヘレニズム文化が広がり、エルサレム神殿にギリシャのゼウス像が運び込まれ、ユダヤ人が偶像崇拝を強いられた事が始まりです。マカベア家のユダがこれを打ち破り、神殿を清めてユダヤ人の手に取り戻しました。
 このような、勝利の記念祭でしたから、気分が高ぶったユダヤ人はイエス様に詰め寄ります。「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエス様は、既に何度もご自分がメシアであることを言い表しています。しかしユダヤ人は、自分が聞きたいことしか聞いていなかった。イエス様との関係を自分から断ち切っていたからです。彼らほど真理を求め、懸命に律法を学び守った人々はいませんでした。しかし、彼らは自分が正しい、と思い込んでしまいました。だから、真の羊飼いであるイエス様の声を聞くことができなかったのです。
 わたしたち羊が、イエス様という羊飼いの声を聞き分けられるのはなぜでしょうか。それはおそらく、自信がないからです。自分は愚かで頑なな羊だ、正しいことを見分けられない羊だとわかっていれば、生きるためには羊飼いを頼るしかありません。羊は、羊飼いの庇護の元にさえいれば安全です。昨日のことを悩まなくてもいいし、明日のことを心配しなくても大丈夫です。しかし、そうとわかっていても、羊飼いの声だけを聞き、ただ羊飼いについて行くのが、何と難しいことでしょう。
 その愚かな羊に、イエス様は「彼らに永遠の命を与える」と言われます。「わたしは羊のために命を捨てる」と言われます。わたしたちの常識で考えたら意味がわかりません。永遠の命とは、決して途切れることのない神様の愛、深い絆です。わたしたちはどのようにお応えできるでしょうか。
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主は羊飼い

ヨハネによる福音書10章7~21節

澤田直子師

主題聖句 『わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。』  ヨハネによる福音書10章11節
 羊飼いは、羊を高地へ連れて行き、何週間も留まって栄養のある草を食べさせます。夜には低い石垣の囲いの中に羊を入れ、入り口に自分が横になって番をします。これが「羊の門」です。イエス様は、ご自分のことを羊の導き手(羊飼い)であり、守り手(門)であると言われます。10節『羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである』の「豊か」は、必要以上に、ありあまってあふれるほどに、という意味の言葉です。
 イエス様に飼われる羊である私たちが、豊かになるために、イエス様は命を捨てる、と言われます。この「捨てる」は、本来持っていなければならないものを、誰かのために自分の意志で手放す行為を表します。
 良い羊飼いであるイエス様は、ご自分の羊を知っておられるし、羊の方でも誰が羊飼いかを知っています。聖書で言うところの「知る」は、単に知識として知っているだけではなく、離れがたく結びつく深い関係を意味します。ですから、天の父なる神と独り子イエス様が深くつながっているように、イエス様と私たちも、離れがたく深い結びつきの中にあるのです。
 かつては囲いの中にいない他の羊であったパウロは、ガラテヤ2:20『生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。』と書いています。羊が羊飼いを見失って荒れ野に迷い出たら、生きていけません。イエス様の十字架を見失ってしまったら、命からどんどん離れて行ってしまいます。
 しかし、9節には『その人は、門を出入りして牧草を見つける』とあります。私たち羊は、イエス様につながる一方で、世にも出て行かなければなりません。ですから私たちは、礼拝に集い、祈りと賛美と御言葉に養われて、世に出て行き、そしてまたイエス様という門をくぐるのです。
 囲いに入っていない他の羊にも、私の羊飼いはこういうお方です、と証して歩む信仰者でありたい、と願います。
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先頭に立って行く

ヨハネによる福音書10章1~6節

澤田 武師

主題聖句 『自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。
        羊はその声を知っているので、ついて行く。』  ヨハネによる福音書10章4節

 旧約聖書では、「羊飼いと羊」の姿を、「神様と人間の関係」に何度も譬えています。羊飼いは、羊を守るためには絶えず見守り、羊に名前を付けて慈しむ愛の資質が要求されます。そこに「羊飼い」が、神様のご性質の譬えに用いられている理由があります。
 羊は「私たち」の姿です。羊は近視なので遠くを見ることはできません。そのため迷ってしまうことがあります。羊は、荒野では、羊飼いの声を聞き逃しては生きてはいけません。だからこそ「羊飼いと羊」の姿が、神様と人間との関係の譬えとなると言えます。
 門が開かれて、聞きなれた羊飼いの声に外に出てくる羊の姿は、ユダヤではありふれた光景です。それはまた、「神様と人間との理想の関係」でもあります。目の見えなかった人が癒しの奇跡によって変えられ、イエス様との新しい関係となったことにも表されています。
 イエス様は、羊飼いは「門から入る者」であり、「羊の名を知っている者」であると言われます。目の見えなかった人は、この世の偏見という「囲」に閉じ込められていました。彼を閉じ込めていた苦しみや悲しみにイエス様は近づかれ、癒しの奇跡を行われました。「あなたは人の子を信じるか」との声を彼は聞きます。聞き覚えのある声に、「主よ、信じます」と、彼は信仰告白をもって応答します。
 この譬えは、私たちの信仰生活の戦いをも表しています。イエス様は私たちの名前を呼び、恵みへと導いてくださいます。しかし、そのお声が分からなくなる時があります。周りの声に消されてしまう時があります。心の声が勝る時があります。ここに信仰の戦いがあります。羊である私たちがどんな状況にあっても「イエス様は止むことなく見守っていてくださる」ということを大切にしてゆきましょう。この事実に私たちも「主よ、信じます」と応答してゆきましょう。イエス様はいつでも、全ての者を導くために「先頭に立って行く」準備をして待っておられます。
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あなたは見ている

ヨハネによる福音書9章35~41節 

澤田 武師

主題聖句 「イエスは言われた。『あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。』
         ヨハネによる福音書9章37節

 癒された事実を証詞し続けた結果、目が見えなかった人へのファリサイ派の判決は、会堂から追放するということでした。イエス様の癒しの奇跡により、生まれて初めて光を見ることができた彼の喜びは、すぐ元の闇の中に閉じ込められることになりました。当時のユダヤ社会では宗教と生活は一体です。会堂から追放されることは、彼が社会との交わりから断たれた生活に戻ることをも意味しています。しかしこの出来事によって「神の業がこの人に現われるためである」とのイエス様の約束は、成就する時を迎えます。
 「あなたは人の子を信じるか」、聞き覚えのある声に彼は驚いたと思います。しかし、その声の主(ぬし)の姿は、彼には分かりません。イエス様の呼びかけは、信仰の迫りです。それは彼にとっては突然であったとしても、イエス様のご計画では、彼の救いは既に備えられた事でした。
 「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」イエス様のお言葉は、彼の信仰の目をしっかりと開かせ、「主よ、信じます」と、彼を信仰告白へと導きました。彼はイエス様をハッキリと見つけました。 
 彼はユダヤで生きるすべを失う覚悟で、自分に起こった癒しを証し続けました。これまでの彼の生活は、与えてもらうことが全てでしたが、イエス様との出会いは、全てを捨てる覚悟を彼に与えました。彼は、何が一番大切なのかを見極めることができたのでした。
 ファリサイ派の「我々も見えないということか」との言葉に、イエス様は応答されます。彼らは知識を学び、確かに信仰熱心でした。しかし、目の前のイエス様の本質を見ることはできませんでした。自分たちの信仰の知識が、イエス様を遠ざけてしまいます。イエス様は、信じる者と信じない者とを分けます。「見ようとしない者」イエス様に裁かれた罪人の姿があります。
 私たちは聖書の中で、いつもイエス様と出会い、イエス様のお言葉を聞いています。聖書には一人一人が必要な時に、ふさわしい御言葉が備えられています。聖書の中に、イエス様のお姿をしっかりと見つめて行きましょう。
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