がんばらないで

イザヤ書60章1~2節

クスマン典子師

主題聖句 「わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し
        あなたの身代わりとして人をあたえ 国々をあなたの魂の代わりとする。」

イザヤ書43章4節

 今日の聖句、ホ群70周年記念のテーマ「起きよ、光を放て」と「がんばらないで」は、相容れないような気がするかもしれません。
 「頑張る」の意味を広辞苑と大辞林で引くと「我に張る」などという意味がもともとあったと書いてありました。無理をしてがむしゃらに頑張る時、もしかしたら、神様に委ねる、という生き方から少しずれてしまっている事に気付く事があるかもしれません。
 高速道路で、自殺したい人に道連れにされそうになり、死にかけ、11箇所もの手術、後遺症を抱える身になった私も、ひたすら頑張ってボロボロになりました。しかし同時期に、大試練にあった甥の、信仰に満ちた、全てを主に委ねて感謝して生きる姿に大きな驚きと励ましを受け、今は、今日この一瞬を感謝して生きられるように神様が助けて下さっています。
 「起きよ」は、原語では「もうすでに起きている」と訳す事も出来ると学びました。自分で無理して頑張らないで、神様に全てを委ねて感謝する時、そこに、自分自身ではなく、ただただご聖霊様の御力によって、イエス様ご自身の光が放たれるのではないか?
 どんな事があっても、私は神様に愛されているのだと、神様の無条件のアガペーの愛をしっかりと受け止めて、神様の光の中に輝く甥のように、私も生かして頂きたいと祈ってやみません。

栄光在主

何事あろうとも

使徒言行録21章1~16節

澤田直子師

 パウロと一行は船を乗り継いで着々とエルサレムに向けて進み、ティルスで教会を探して滞在します。これは、ステファノの殉教の後で大迫害が起こり、弟子たちが散らされた先で建てられた教会です。ここから皆が皆、パウロにエルサレムに行かないようにと懇願します。8節の「例の七人」というのは、使徒6章にあります、霊と知恵に満ちた評判の良い人を選んで執事職に任命した七人です。筆頭がステファノ、次の名前がフィリポです。フィリポの家で、きっとパウロはその事を思い出さずにはいられなかったでしょう。かつては敵同士で、命まで奪うような憎しみを持ち合った者が、今は同じ伝道者として同じ家にいて、同じ目的のために祈り合う。本当に美しい光景です。苦難の預言を聞いたルカたちまでもがパウロを止めさせようとしますが、彼の答えは『主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。』パウロの心には、死に瀕して「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」と祈ったステファノの声が響いていたのではないでしょうか。
 パウロの生涯は、何もかも「主イエスの御名のため」です。使徒9:16には『わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。』という神様の言葉はむしろ本望だったかもしれません。神のご計画を知るパウロには、人間の心配よりも優先させるべきことがあるのです。そういう場面でも、クリスチャンには最後の最強の祈りが与えられています。『主の御心が行われますように』。何事あろうとも、パウロの福音伝道は妨げられません。第二コリント4:8『わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。』
 敬老感謝礼拝にあって、信仰の先輩、人生の先輩である皆さんは、「良い時も悪い時も、いつも主が共にいてくださいました」と証言してください。行く手に何事があろうとも、今まで主を信じてきましたから、これからも主の導きを信じます、と宣言し、後に続く者を励ましてください。

あなたがたをゆだねます

使徒言行録20章25~38節

澤田 武師

主題聖句 『そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。』 32節
 パウロは今、愛するエフェソの長老たちを前にして、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」エフェソの教会を、この後は、「長老たちあなたがたに、その働きの全てをゆだねます。」とはっきりと伝えます。なにか冷たい言い方に聞こえますが、「ゆだねる」ことは「確信」と「決別」です。
 「神の教会」とはイエス様の血の贖いによって初めて得られたものです。そこにわたしたちも招かれました。わたしたちも全て、「神の教会に属する者」です。パウロの願いは、エフェソの教会が「神の教会」としてあり続けることです。
 「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。」との言葉を残してパウロは去ります。「生ける神の言葉、生ける神の恵み」は、信仰者の基礎を新たにし、真の信仰者を造り上げてゆきます。そして、真の神の教会を造り上げる者として、共に歩む者として、イエス様が教会に与えられた永遠の命を受け継ぐ者としても強められます。この確信によって、パウロは、「ゆだねる」ことが出来るのです。
 この勧めは、信仰者の理想の姿を言い表しているとも言えます。「ゆだねる」自分の経験や実力を頼りにしないのは、結構むずかしいことです。パウロは、全てが「聖霊」から出たもので、今ここから去ってゆくこと、残るエフェソの教会へ与えられる新たな試練、それも導きであって、だからこそ、御言葉にゆだねきって、今去って行くことが出来ると伝えます。残るあなたがたは「わたしがあなたがたに教えてきたことを思い起こし、目を覚ましていなさい」パウロの命令です。しっかりと御言葉により頼んで歩むことを勧めます。「聖霊」はあえて困難な道を選ばせ、損をすると思う方に進ませることがあります。
 「受けるよりは与える方が幸いである」パウロほど、イエス様を宣べ伝えるために「与えられ」、命さえ「与える」ことを惜しまなかった者はいません。
 そう考えてみると神に「ゆだねる」ことと、「与える」ことは、同じではないかと思います。神を信じているからこそ「ゆだね」「与える」ことが出来るのです。
 この説教を読むたびに、多くの者たちの別れの涙が、キリスト教を世界へと伝えて行った原動力の一部となっていたことを覚えます。「散らされる」ことは悲しいものですが、それは「聖霊」による再スタートになります。わたしたちも、「聖霊」によって贖い取られた者として感謝して歩んでいるのか。「神とその恵みの言葉」にわたしたちが「ゆだねきっているか」もう一度思い出してみましょう。

聖霊に促されて

使徒言行録20章13~24節

澤田 武師

主題聖句 『そして今、わたしは“霊”に促されてエルサレムに行きます。」 20章22節
 パウロはエルサレム教会のユダヤ人クリスチャンを安心させるために、五旬祭に間に合うようエルサレムへと旅を急ぎます。それは、パウロが最も愛したエフェソの教会を再び訪問することを諦めることになります。さらに、エルサレムで待っているのは「投獄と苦難」。これら全ては「聖霊」によって既に示されていることでした。
 パウロはミレトスから人を使わしてエフェソの長老たちを呼び寄せます。愛するエフェソの長老たちへの語りかけは、告別の説教となりました。
 パウロはその宣教の最初から「全く取るに足りない者」と思い続けていたと語ります。この言葉はパウロが「謙遜な者」として歩み続けていた証詞です。「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰」を、どのような時でも述べ伝えることは、迫害する者や陰謀をたくらむ者との出会いであるとも言えます。それは「涙を流しながら」の歩みであったことを証詞します。しかしパウロは、涙と試練の中でも、「一つ残らず・力強く」述べ伝えましたと語ります。この姿勢こそが唯一パウロが証詞する、「主に仕えてきた」者の姿です。そして、私たちもパウロと同じ証詞をすることです。
 パウロは続けて「エルサレムで何が起こるか分りません。」と語ります。あえて「投獄と苦難」が神の御旨であっても、今その意味を知ることが出来なくても、それでも「聖霊」によって促されている道を、主に仕えるために進んで行こうとします。それが「自分の決められた道であり、力強く証詞するという任務を果たす」事であると語ります。
 聖霊の迫り、それはわたしの思いを圧倒するものです。今、聖霊はパウロに迫ります。使命を果たすためにエルサレムへと向かわせます。聖霊の迫りにより、ある者は人種差別を訴え、ある者は死にゆく者と寄り添い、ある者は戦争で敵国だった民のために伝道者となりました。多くの方々がその生き方を変えています。変えられています。聖霊の迫りは、人を大きく変えます。その歩みを大きく変えます。わたしたちが本当に向かわなければならない場所、そこに向かいましょう。