熱心な祈り

使徒言行録12章1~19節

佐々木良子牧師

 人生の中で絶体絶命という状況に陥った人は少なくないと思います。主イエスの弟子で、エルサレム教会の中心となっていたペトロは国家権力による迫害によって牢獄の中で窮地に立たされていました。このことは同時にエルサレム教会存亡の危機となる出来事でした。さて、どのように乗り切ったのでしょうか。
 ペトロは以前にもユダヤ人議会の手によって投獄されましたが、神の助けにより脱出したので今回は厳重な警戒のもとに監視されていました。ですから牢からの脱出は不可能で誰もが絶体絶命と思われる状況でした。しかし、神の助けにより解放されました(7~10節)。彼自身も幻を見ているかと思うほどの奇跡的な事でしたが、「…主が天使を遣わして…わたしを救い出してくださったのだ。」(11節)と、外に出て御使いが彼から離れ去った時、主が御使いを通して助けられたやっと現実を受けとめた程の出来事でした。
 その奇跡の原動力は「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」(5節)と、祈りが神を動かしたのです。どのような絶望的な状況であっても、祈ることができるのが信仰の強さです。「もう無理」と思ってもその先が必ずあることを信じる事ができる幸いです。問題があってもなくても、熱心に祈り、神の求める教会、そのような教会になることを主は願っておられます。
 生きていれば様々な問題に突き当たり、振り払おうともがけばもがくほど身動きがとれなくなってしまったという経験をしたことはないでしょうか。又、傷をなめ合うような人との関係をもったとしても、そこから生まれるのは却ってマイナス的な要素しかありません。残念ながら私たち自身は解決できる力は持ち合わせていないのです。人は上から、つまり神の助けによってのみその重圧から解き放たれます。それが祈りです。神に助けを求める人は神と向き合います。神に向き合う中で、人の内なるものは安らぎ養われていきます。
 私たちが経験する苦しみや試練は決して喜ばしいことではありませんが、そのような経験は祈りへと導かれている時であると受け止め、神に期待していきたいです。必ずしも自分が描く方向へと導かれない時もあります。問題がすぐに解決できるとも限りません。しかし祈り続けていく時、そこに必ず主なる神が働いてくださり神の時に神の方法で応えが与えられます。自分の思いに神が合せてくださるのではなく、私が神の思いに身を寄せていくのが祈りです。