キリストにある平和

エフェソの信徒への手紙2章11~22節

佐々木良子牧師

 「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神と敵対していました。」(コロサイ1:21)「聖書が示す平和とは、戦争のない状態のみならず、「神と人間」との関係について語っています。そして主イエスはあなた方が一歩積極的に平和を作り出しなさいと仰せになっておられます。「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)
 当時の教会にはキリスト者ユダヤ人(イスラエル)と異邦人との間に大きな壁がありました。イスラエルの民は間違った選民意識により、異邦人は神を知らないから希望がないと、軽蔑・差別する壁を作っていました(11~12節)。
 イスラエル民族のみならずいつの時代にあっても人間は壁を作り、互いに自己主張し、攻撃と報復という罪の歴史を繰り返しています。このような人間の姿を見て悲しんでおられる神の痛みなど知らなかった人類です。しかし神は、敵対し互いの命を傷つけ合う私たちを憐み、滅びから救い出すためにイエス・キリストをこの世に送ってくださいました。しかも十字架につけると惨い方法で私たちに神の愛を示してくださったのです。
 「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の内において敵意という隔ての壁を取り壊し…こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて、平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(14~16節)二つのものとは、顔なじみでない友達を一緒にするという意味です。
 罪の暗闇の中に埋没し神と敵対していた私たちの只中に、神の方から近づいてくださり、しかもイエス・キリストを十字架によって私たちの罪を赦し、神の家族として一つにしてくださいました(17~20節)。「平和とは人間が造りだすものではなくイエス・キリストによってのみ与えられるものです。そうして相手を労わり思いやる者へと新しい人間へと変えられて成長していく場が教会です(20~22節)。教会は神の御心が貫いている場です。
 この私に「人が何をしたか」ではなく、「神が何をしてくださったか」を心から分かった時、もはや人間の敵意や憎しみに支配されず、神の御支配の下に十字架の有難さが身に沁み入り神と人へ感謝できる者となっていくのです。心がいつも神に向かい、御心を求めていく人が平和を造り出していきます。