手引きしてくれる人

使徒言行録8章5~25節

佐々木良子牧師

 本日の箇所はエルサレム教会に激しい迫害が起こり、使徒たちが散らされた先のサマリアの町での出来事が記されています。そこにはフィリポとシモンという対照的な二人の姿がありました。
 フィリポは人々が救いへと導かれバプテスマを受ける事を喜びとし、彼の語る福音と奇跡によって多くの人々が救われました。一方魔術を使って得意になっていたシモンは、いよいよ自分が人々から称賛を得て偉大な人物と見てもらいたいがために、聖霊なる神の力を手に入れようとお金を持ってきたのです。
 そこでペテロは「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。・・・お前の心が神の前に正しくないからだ・・・この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。」(20~22節)と激怒しつつも、一路の道をも示しました。しかし、シモンは「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」(24節)と、悔い改めもなく更に自分で祈ろうともしませんでした。神との関係を持とうともしない姿です。
 ペトロが「心が神の前に正しくない」と、指摘しているように聖霊なる神の力は、勿論お金で買うこともできませんし、人の欲望を果たすために与えられるものでもありません。では、心が神の前に正しいとはどのような事でしょうか。神を信じる者には悔い改めと祈りが導かれていくものです。キリスト者といえども罪を犯し何度も失敗しますが、悔い改めと祈りが与えられますから何とか神に結ばれているのです。そうして、こんな私をも神は愛してくださると感謝と喜びが溢れてきます。この恵みを感謝することができるのは、自分は弱く何もできずにお手上げ状態の時、神の前に降参している状態の時です。これが聖霊なる神の力です。このように神の恵みによって私たちをイエス・キリストへと導いてくださり手引きをしてくださる人格を持ったお方、聖霊なる神がおられることを感謝できる人がキリスト者です。
 神はイエス・キリストの十字架の死と復活によって、救いの恵みを与えてくださいました。聖霊の御支配と導きによって、私たちはイエス・キリストを「私の救い主」と告白する事ができるのです。そうして私たちは日々神へと向かって歩める幸いを思うものです。