何を喜ぶか

マルコによる福音書12章35~37節

 私達はイエス・キリストをどのように考え、何を期待し、喜びとしているでしょうか?
 アダムとエバが罪を犯した為に「罪が支払う報酬は死です・・・」(ローマ6:23)と、全ての人間の命は朽ちて死を迎える者となりました。しかし、この最大の敵である「死」を滅ぼされる為に、神の御子でありながら人の子となってこの世にご誕生されたのがイエス・キリストです。私達罪びとの身代わりに十字架にお架かりになりましたが「死」から勝利し復活されました。その結果「イエス・キリストは私の救い主」と告白する者は誰でも主イエスの復活の命を頂く事ができるようになったのです。主イエスは死から復活へと天国の道を拓いてくださった、この世の全てを超越された救世主です。このように私達の人生の喜びはキリストの復活の命が与えられた事です。
 伝道者パウロは「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(フィリピ3:8)と語っていますが、私達はパウロのように告白する事ができるでしょうか。生活の基盤が、本当に復活の命を究極の喜びと希望としているかが問われています。
 当時のユダヤの人々はローマ帝国に牛耳られており、苦しい現実から解放してくれる政治的・軍事的な王を求め、主イエスをこの世的な「救世者」と考えていました。そこで主イエスは「どうして律法学者たちは、メシアはダビデの子だというのか」(35節)と、敢えて群衆に問うています。「・・・御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです・・・」(ローマ1:3) 確かにキリストはダビデの子孫として人間の姿で誕生されましたが、同時にこの世を越えた「救い主」である事に目を向ける事を教えられたのです。
 私達もこの群衆のように、主イエスにこの世の苦しみ、虚しさを埋めてくださる事を期待し、自分の都合に良いご利益信仰にすり替えてはいる時があります。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(Ⅰコリ15:19-20) この世的な救いを求める弱い私達は只々、復活の喜びを本物の最高の喜びにしたいです。