何を願っているのか

マルコによる福音書10章35~454節

 「人の子は仕えられるためにではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(45節)主イエスは罪と死の力に捕えられている人間を解き放つために、私達の身代わりとなって、御自身の命をささげて十字架に架かられました。主イエスの一生は最期まで神の御心を全うするため、神の御前に歩み続けられました。
 対照的に弟子達は、天国に帰った時には誰が上とか下とか(35~36節)、又、お互いを見比べて腹を立て(41節)、どこまでも「わたし」「自己中心」の歩みでした。私達の現実を見ているような思いがします。いつの間にか「神の前に」という視点を見失って、廻りが見えなくなり「自分中心」という、罪の世界に身を置いている私達ではないでしょうか。人間がいかに「地上のこと」に心を奪われ「神」を見失って、殺伐としたこの世に我が身を置いているかを弟子達の様子から教えられます。
 このように「私中心」の世界から「神中心」とした神の愛の御支配の新しい世界に私達を招く為に、主イエスは十字架の苦しみを耐え忍び、僕となって徹底的に仕えてくださいました。ですからイエス・キリストの十字架を信じた者は既に天国の席は確保されていますから、どの席に座るのだろうかと心配しなくても良いのです。全ては神の御手の中にあります(40節)。
 この世の基準で右往左往するのではなく「今、自分は神の前にいるのかどうか」が問われています。アダムとエバが神の御声より蛇の声に心を奪われた時、神の前から隠れようとしました。「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(コロサイ3:2)と、キリストを信じて罪に死んだ私達にも拘らず、その拠り所をはっきりと今も示し続けておられます。
 主イエスについて「・・・全能の父なる神の右に坐したまえり・・・」と、礼拝毎に信仰告白しています。この告白は救いの成就と共にキリストの執り成しを意味しています。私達の命を刺し違えて、私達の命を慈しんでくさった主イエスが全ての者の祝福の為に執り為してくださっております。神の大いなる慈しみの中で生かされている私達は何をこれ以上臨むのでしょう。只々、感謝あるのみです。「御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください。」(詩編119:135)この世の生活に心騒がせる事なく、神の右におられる主イエスを見つめながら、神の御顔の光を輝かせて頂く存在でありたいです。