塩は良いものである

マルコによる福音書9章42~50節

 「わたしを信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい・・・もし片方の足が・・・もし片方の目が・・・」強い口調で主イエスは仰せられます。別の箇所では「心に憤りを覚え、興奮して・・・イエスは涙を流された。」(ヨハネ11:33~35)と、柔和な主イエスが感情を露わにむき出しにされている箇所もあります。
 どちらも珍しい場面ですが、その根底に共通するものは「滅びゆく命」に対する憤りで、罪びとである私達に対する「熱い神の愛・熱情」です。実際に弟子達が迫害する者たちを海に投げ込んで抹殺する事を期待している訳ではありません。永遠の命に拘る事ですから、いかなるものによっても神から引き離されてしまうような事があって欲しくない、という強い思いです。しかし「あなたたちは、命を得るためにわたしのところにこようとしない」(ヨハネ5:40)と、神の求めと私達の現実には、大きなギャップがあります。
 主イエスは真の命への道を切り拓く為に、私達の拙い命と真剣に向き合ってくださった唯一の御方です。ですから、キリストを信じて従い始めた者を絶対に失いたくない、つまずいて欲しくない、信仰を失って欲しくないと、願っておられます。主イエスは十字架にお架かりになる直前迄「・・・わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った・・・」(ルカ22:32)と、裏切ったペトロの為に祈られました。
 このような主イエスの思いを踏みにじるように私達は「~につまずいた」と簡単に口にするような恥ずかしい現実があります。しかし、情けない歩みであっても私達を慈しみつつ、最後まで兎に角信仰の道を全うしてほしいと、今も祈っておられます。もし、キリストを信じる者をつまずかせるような誘惑や迫害があるなら、主イエス御自身が大きな石臼を首にかけても放り出してやりたい、と私達の危うい信仰を守っていてくださいます。
 この世で生きる間、誘惑と試練に遭遇します。それに打ち勝つ事ができるのはイエス・キリストの死が、私の新しい永遠の命であることを感謝して精一杯与えられた命を生き抜く事です。そして、私達自身がこの世の腐敗を歯止めする塩の役割となってこの世へ遣われていくのです。「塩はよいものである。・・・自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、平和に過ごしなさい」(50節)