人生の土台

コリントの信徒への手紙一3章10~17節

 伝道者パウロほどキリストの体としての教会、体の各部であるべき姿を追い求めた人はいないと思います。教会が抱えている諸問題に対して労を惜しまず、真剣にイエス・キリストの体なる教会を建て上げる為に生涯を捧げました。しかし、彼は自分一人で何とか建て上げていこうとしたのではありません。「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」(9節)と、コリント教会に連なる人々が建物を形作る部分であると語っています。建物とは、目に見える教会堂ではなく、イエス・キリストの恵みによって罪から救われた信仰者の群れの事を指しており、そこに集った神の民がその建物を造り上げていく使命が与えられています。
 その働きに加わる信仰者は「イエス・キリストという土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(11節)と、ありますようにキリストの土台の上に注意深く建てなくてはなりません。教会は罪の赦しと永遠の命を与えてくださるキリストが土台です。この土台に私達自身が神に喜ばれる素材となって用いられて、キリストの体なる教会が建て上げられていきます。建てる者の働きが良いものか、そうでないものかは、やがての終りの日、主イエスが再臨された時・審きの日に明らかになり報いも違ってきます(13~15節)。しかし、働き人の救いには変わりはないと、神の深い憐れみも記されています。
 神の審きに耐えられるか否か、常識的に考えるならば「金、銀、宝石」が残り「木、草、わら」は、燃え尽くされるように思いますが、人の常識と神の思いは違います(12~15節)。一見もろいような教会であっても、キリストの土台の上にしっかりと据えられ、吟味された素材=私達が求められています。「あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(16節)と、既に聖霊なる神が私達に宿ってくださり神の神殿となっていますから、キリストを土台とする限り、私達を用いてくださいます。
 「・・・なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身をむけつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。・・・」(フィリピの信徒への手紙3:12~21)罪赦され救われた者は既に主イエスを仰ぎ見て走り抜くレースに参加させて頂いています。主イエスは最後まで私達に期待してくださっていますから、軸がぶれる事なく良い素材となって教会形成に参与して参りましょう。