子どもたちの祝福を願う

申命記6章4~9節

 大人や親が子どもの幸せを願うのは、時代が移りゆくとも変わらない事ではないでしょうか。良い教育や多くの財産等、できるだけ沢山のものを残してあげたいと考えますが、聖書では唯一つ、神を愛する事を繰り返し教えなさいと命じています。「…あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え…歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい…」(4~9節)子どもの祝福を願うならば、先ず親が神に愛されて導かれ、養われているという経験がなければ、語り聞かせる事は不可能です。
 イスラエルの基となったヤコブは、兄のエソウを騙して長子の特権を奪った為に、エソウから逃れる為の逃亡生活を送る羽目になりました。その生涯は生きた年数を重ねた分だけ災いに振り廻され、苦しみの人生だったと嘆きました。しかし、死を直前にして「神は私を見捨てずに導いてくださった」と、賛美し感謝して信仰告白をしています(創世記48:15~17)。
 ヤコブは人生最後の仕事として子孫に残したものは、自分が体験させて頂いた神の愛と信仰でした。「今までの苦しみの中にあった私を養い、導き、助けてくださった神こそ、あなたたちの神である。神が祝福してくださるように」と子孫への祝福を祈ってその人生を終えました。そのようにして残された彼の子孫は信仰継承し、イスラエル部族が拡大していったのです。ヤコブは肉欲にかられ自己中心的で家族を裏切り、主を怒らせ背いた者でしたが、尚、神は見捨てずヤコブの神であり続けられたのです(創世記48~49章)。ヤコブは神の愛をその身に受けた事を語り、祈り大いなる信仰という遺産を残した典型といえるでしょう。
 「更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に着け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」(8節)どれ程神が私達を愛し、見捨てないお方とであると私達は知っていても忘れてしまうのです。人間は愚かな者で神の恵みを忘れるのです。故に自分に見える形で神の愛、恵みを心に刻み付けるようにと命じられています。新約の時代においては、イエス・キリストの十字架が神の愛を象徴しています。礼拝において私達は毎週神の愛に触れ、聖餐式において心に刻み付けています。子どもたちの幸せを願うと同時に私達も神の愛を忘れずに共に祝福の中を歩み続けさせて頂くのです。