洗礼を受けられたイエス・キリスト

マルコによる福音書1章1~11節

 「神の子イエス・キリストの福音の始め」(1節) 福音という語の起源は、戦争で勝利した時「我々は勝った」と、「喜ばしい訪れの知らせ」から来ているもので、主イエスに関しても同じ意味で用いられています。
 人の一生は罪の奴隷として死への敗北の道を歩むか、罪から勝利して永遠の命=天国に通じる祝福の道を歩むか、どちらかです。しかし主イエスは、全ての人間の罪を救う為に十字架にお架かりになり、その後復活された事実により、私達は既に罪からの勝利を頂いています。ですから私達にとって必要な事は罪の悲惨さから勝利を得て救われた。」という、主イエスがもたらした勝利の喜びの知らせを聞く事です。
 この福音の始まりは、主イエスは罪なき神の子であるにも関わらず、洗礼者ヨハネから罪人が受ける「罪の赦しを得させる洗礼」を受けられた事から始まります(9節)。主イエスは何処に身を寄せているかというと、罪人の一人として、罪を告白して洗礼を受けた罪人と同じ水の中におられます。これはご自身が十字架にお架かりになられた時に及んでも、罪人と共にいてくださる(15:27)御生涯を現すものでもあります。
 「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ4:15)大祭司とは主イエスご自身で、最初から最後迄私達と同じ罪人の立場にご自身の身を置かれたからこそ、罪に打ちひしがれ、弱さに苦しむ者の痛みを思いやる事ができ、神に憐れみと赦しを祈られました。最後はその命を私達に与えてくださり、救いの御業を完成されました。
 「天が裂けて、霊が鳩のようにご自分にくだって来るのをご覧になった」(10節) 人間の罪によって天は閉ざされていましたが、主イエスが洗礼を受けられた事によって天の窓は開かれ「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(11節)と天からの御声を聞かれ、神の完全な救いの御業を遂行されました。私達は様々な経過を通って、救い主の元に辿り着くように思いますが、既に主イエスが洗礼を受けられた時から、救いの御業は始まっています。私達はキリストのこの勝利の知らせを聞き続ける者でありたいです。