この地に存在し生かされている私

マタイによる福音書章5章13~16節

 「あなたがたは地の塩・世の光である」(13,14節)と、主イエスは仰せられます。地の塩・世の光になりなさい、という命令ではなく、既に「~である」と、権威をもって宣言されています。あなたの存在は廻りに影響を与え、変える事ができる、かけがえのない存在であるという断言です。
 塩も光もそれぞれの目的の為に用途があるのと同じく、私達の存在も神が目的をもってこの地に遣わされています。多くの人は幼い頃から自分の為に沢山の事を積み上げて、自分の倉に良いものを詰め込むような生き方をしています。しかし、自分の為ではなく、神を証ししながら廻りに影響を与える為に、あなたは既にここに存在している、と宣言されています。このお言葉を聞いた人々は特別な人々ではなく、目の前にいる私達と同じ群衆です。「何の力もなく、失敗ばかりしているようなつまらない人間だ・・・」と、うなだれているようなこの私に対して「あなたは地の塩・世の光である」と宣言しております。
 光とは良い行いを指します。人は神の作品であって、良い行いができるように造られています(エフェソ2:10)。「・・あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)良い行いや立派な行いとは、自分を立派に築き上げて人格者になる事ではなく、こんな罪深い私の為にイエス・キリストの十字架によって罪赦され、永遠の命を頂いた、という喜びと感謝から湧き上がる言動を指しています。私の言動を通して神を知らない滅びの中にいる人々が救われて神を感謝し、賛美する者として廻りが変わる為にここに存在しています。神は難しい事は要求しておらず「今の自分があるのは、神の力です」と、自分の為に甦ってくださった主イエスを賛美し喜んで生きている、この生き様をこの世に示していく事です。
 神を褒め称える事ができなくなった教会は教会の存在の意味を失います(13節後半)。キリストのものとされている私達が神を賛美し、喜ぶ存在として「地の塩・世の光」として今、ここに遣わされています。教会に招かれている者でしかできない役割を担っている私達である事に感謝します。