十字架上のイエス・キリストの叫び

マタイによる福音書27章45~56節

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(42節)
主イエスの十字架上の壮絶な叫びです。2000年以上世界中の人々が聞いてきました。この叫びの根底にあるのは子供が親に見捨てられるという恐怖です。十字架にお架かりになる、という事は、父なる神との決定的な断絶を意味します。主イエスの生涯は父なる神に従順に従い共に歩んで来ましたが、見捨てられ、その絆がいよいよ切れるという恐怖です。
 人は苦難等に遭遇すると「神に見捨てられた」と、口にしますが顧みるなら神に従わず罪を犯す愚かな者で、本来なら見捨てられても仕方のない者で、私達は神に訴える事等手到底できない存在です。ですから神に従順に従われた主イエスだけが許される叫びであると言えます。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3:16「与える」とは手放すという意味で、罪なき神の子である主イエスを手放し見捨てる以外人間の救いはなかったのです。本来見捨てられる筈の私達が見捨てられず、見捨てられる筈のない神の子イエス・キリストが見捨てられた事によって、私達は罪赦され神と和解の道が開かれ、永遠の命を頂く事ができました。「罪と何の関わりのない方を、神は私達の為に罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得る事ができたのです。」Ⅱコリント5:21と、パウロが語っている如くです。
 51~53節には主イエスが十字架上で犠牲の血を流された後の罪の赦しと神との回復が記されています。最も重要な事は、罪の赦しの宣言と神との交わりの回復です。その結果永遠の命を頂く事ができるのです。主イエスがご誕生された時、シメオンという老人はどのように死ぬかが気がかりでした。しかし自分の取り返しのつかない罪の為に神は救い主イエスを与えてくださった事を確信し「安らかに去らせてくださいます」と語っています(ルカ2:25~)。救いの恵みを知っている者は自分で何とかしようと焦らず、こんな者でも大丈夫と、キリストの十字架に感謝しつつ自分の命を豊かに生き、安らかに最期を迎えるのです。神に見捨てられた主イエスの犠牲の故です。