5月2日 礼拝説教概要

「400人の味方」 創世記33章1~20節
 いよいよヤコブは、兄エソウと20年振りに再会する時がやってきましたが、以前のように人をおしのけて自分を守る事しか考えられなかった彼とは違っていました。目前に400人ものエソウの軍勢が見えて脅威でしたが「・・・先頭に進み出て、兄のもとに着くまで7度地にひれ伏した」(3節)と、記されています。自我が砕かれ、神の民=イスラエルとなった彼は自ら先頭に立って一族を守り、更に兄の許しを乞う遜った者となったのです。平伏す時、神の恵みの中にありますから脅威や恐れ不安はなくなり、相手の心を開かせます。
 人生にはできたら避けたい出逢いがありますが、構えて警戒したり、知恵を用いて策略を練るなら相手も警戒し、関係が余計に複雑になり平和を見出す事は困難になります。遜って自ら一歩前に出る事です。「エソウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた」(4節)と、400人は敵ではなく歓迎でした。更に「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます」(10節)と、あれほど恐れていた兄の顔でしたが、神を通して兄を見ていく者に変えられました。ヤコブは今迄の痛い経験を通して、人の強さとは自分の思いを通す事ではなく、神を通して遜くだる事を知った事は大いなる祝福です。
 しかし、人は謙遜等持ち合わせはないものです。主イエスは傲慢極まりない私達の只中に人間の姿で現れ、低くしかも「遜って、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ3:6~11)と、ここに真実な遜りがあります。私達が信仰においてこの主イエスの遜った姿に与る時、私達も新しい者として造り変えられて成長させて頂けます。「さあ、一緒に出かけよう。わたしが先導するから」(12節)と、この呼びかけを聞きながら、主イエスを神と仰ぎ共に遜って歩みつつ、神に喜ばれる教会とさせて頂きましょう。主イエスは十字架に架けられる時まで弟子達を守ってくださったように、今の私達も守られています。