9月13日 礼拝説教概要

「信仰を持って生きているとはどういうことか」 
  Ⅱコリント13:5~13 ヨハネ15:1~12
 コリント教会の人々はパウロ、アポロ、ケファ達にそれぞれがつくといった分派問題が起きていました(Ⅰコリ1:10~)。しかし、信仰の原点に戻り、人に従うのではなく教会の大牧者イエス・キリストに遣えて一致して救いの福音を語ってほしい、というパウロの思いが記されています。
 信仰があるかどうか、各自が反省し吟味する必要があります。それは他人が決めるものではなく、自分一人が神の前に立って深い祈りの中、御言葉の光によって自分がどのように神の前に映し出されているかを吟味し反省すべきです。
 人がどうこうではなく、主イエスが自分をどう見ておられるかを祈るのです。キリストが我が内におられ御言葉に突き動かされて、新しい命に生きているなら信仰を持って生きているという事になります。
 キリスト=教会に繋がっているなら愛の業に励む事ができ、深い喜びと祝福を頂けますがキリスト=教会と離れては愛の業は何一つできません(ヨハネ15章)。
 「愛」と「溺愛」とは違います。溺愛は人間を駄目にしてしまい、教会は兎角世俗的な群れに成り易く、一緒に生きる・尽くすという、感覚的な人間的レベルの愛はもろいものです。
 聖書における神の愛は赦しだけではなく、罪を審く厳しい十字架の犠牲の愛・主イエスの祈りによって裏打ちされた愛です。
 
 十字架の愛は時には打たれ鍛えられる時もありますが、罪を審く厳しい神の愛に生きていない限り強くなる事はできません。十字架に示された愛が「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」(Ⅱコリ13:13)と祝福の宣言がされています。
 この宣言によって私達はしっかり立つべきです。どこの教会も罪人の集まりで問題が起きる事は当たり前です。その時こそ信仰を持っているかどうか吟味し、初心に戻りキリストの御言葉に生かされていくべきであります。