別に何かの信仰を持っていなくても、
「健康をお祈りします」とか
「お二人のお幸せをお祈りします」って
いいますよね。
キリスト教プロテスタントは、
基本的に自由祈祷です。祈祷文は使いません。
公の祈りの時には、原稿を作る方もいます。
密室の祈りの時には、順番も何もなく、好きなように祈ります。
でも、そこで大切なのが「誰に向かって祈るの?」ということ。
必ず「天の父なる神様」とか「天のおとうさま」とか、
ご年配の方は「恵みと憐みに富たもうイエスキリストの父なる御神様」などなど、
呼びかけの言葉から祈りが始まります。
そういうクリスチャンから見ると、
神社やお寺で手を合わせている人が、
誰に向かって祈っているかをわかっているのか、
ちょっと不思議に思います。
わたしの生まれ故郷には、結構大きい神社がありまして、
初詣なんかはそれはもう大変な賑わいです。
露店も沢山出ているし、お御籤やお札、破魔矢、お守りなど
いろいろと売っています。が。
この神社で祀っているのはたしか、五穀豊穣の神様だったと思います。
なのに、交通安全とか、恋愛成就とか、安産祈願(これはアリか?)の
お守りって・・・皆さん楽しそうで嬉しそうで、それでいいといえばいいのでしょうが。
それとも神社ってそういうものなのかなあ。
聖書の神様は唯一絶対の神様です。
全知全能、すべてをお創りになり、支配される神様。
そういうお方に祈るのですから、あまりお気軽には祈れない、と
思うこともあります。
一方で、父よ、と呼びかけることをお許しになる神様だから、
もっと近づいてもいいんですか?と思うことも。
牧師になって早16年、今頃こんなことを言っていていいのでしょうか???
でも、わたしは神社に神様がいて願いをかなえてくださるとは
思っていないけれど、たとえば家族の病気のためにとか、
難しい試験のために、一心に祈る人の心には嘘はないよね、とも思うのです。
世の中には、わかればわかるほど、わからなくなるものがありますね。
澤田直子